早稲田の杜と私、そして戦争と私
                          鈴木 文雄  会員   17年高工建築
 私は昭和16年12月に早稲田の杜を巣立った男です。中高年代の方ならばいまだ記憶にあるとおもいます、あの・・・大東亜戦争勃発の日なのです。12月8日未明、米英両国に対し、宣戦布告をし真珠湾攻撃をしたニュースの「シーン」は今以って忘れられないと思います。結果は、世界の過半数の国々を相手とする第二次世界大戦へと拡大され、そして、昭和20年8月15日終戦を迎え、我が国は初めて敗戦を味わったのです。戦後の苦しい生活を国民全員が大なり小なり味わされたのでした。戦争中の特に南方作戦を思い出し、また記録の日誌を参考とて以下筆をとりました。
 戦争が本格化してくると、国民の日常生活に当然しわ寄せが起きてきます。新聞やラジオ等で倹約、節約を促す標語が毎日のように何回となく国民の耳に入って来るのです。「勝つまでは欲しがりません」、「贅沢は敵だ」が合言葉として日常流れてきました。物価統制令が発令され、物はだんだん少なくなり、ヤミ値が横行する等、国民の生活は次第に苦しい状態になって来ました。
 軍隊(陸海軍)は、赤紙といった召集令状で兵員の補充が強行され、学徒動員令、更に国民総動員法によって殆どの男子は軍隊へ、女子は銃後の守りとして軍事工場に徴用され、滅私奉公の戦時体制が鮮明となってきました。
 私は昭和15年9月、早稲田高等工学校建築学科在学中に陸軍軍属を志願しました。勤務地は東京代官町にあった東部軍司令部内経理部工務課でした。昭和18年4月「陸軍技手に任ずる」という辞令を受取った時は名誉を感じ、得意満面でいたものでした。翌5月突然南方軍第二十六野戦貨物廠に転属を命じられ、準備もそこそこに、宇部港を発ち原隊のシンガポールに向かいました。当時の輸送は民間の船会社より提供をうけた(徴発した)貨物船、貨客船、客船で、飛行機による輸送は特別でない限りありませんでした。我々が便船した船は三井船舶所有の貨客船「有馬山丸」総屯数9000屯で中クラスのものでした。軍関係のため外観の色彩は黒又はぬずみ色のみで、一般民間の客船と天と地の違いがあって、暗い感じで、乗船時、不気味な気分になったものです。最下層のエンジン室を除いて、大広間に改修された客室には定員以上の兵がギッシリと積載されているように思われました。甲板の空間には便所、物置等が仮設され、甲板を歩くにしても仮設物が邪魔し、歩行も困難でした。2階、3階の客室(個室)は殆ど各部隊将校連中が入室ており、我々同行の3名はその一室に便乗し、肩身のせまい感を味わったものです。
 夕刻、地下エンジン室から発動機の音が次第に大きくなり、船体が結構厳しく震動してきて、いよいよ出帆と感じました。ドラの音もない淋しい船出でした。船窓から離れていく内地の山や野原、田園風光等との別れの寂しさを感じました。
 航海の途中、食料や軍需品の補給のため台湾の台北港に停泊しました。物資の補給のみで人物の下船上陸は禁じられていました。
 台北を離陸し、目的地シンガポールに向かった翌早朝、突然船が大きくふるえ、どどどん!と左舷、右舷に水柱らしい音が聞こえた。と同時に「敵潜水艦出現!」が船内のスピーカーから響き渡った。直ちに将校、将兵、船員全員が備付のブイを装備し非常事態勢に入った。もう私は生きた心地がありませんでした。!」が船内のスピーカーから轟き渡った。直ちに将校、将兵、船員全員が備付のブイを装備し非常時態勢に入った。もう私は生きた心地がありませんでした。約一時間位と思う、船が沈没されるかもしれない恐怖にされられがら,我々3名は互いに目と目を合わせて真っ青になっていました。やがて静けさが戻ってきました。わが軍(海軍)の駆逐艦が敵潜水艦に爆雷を投下した作戦が功を奏して、敵潜水艦は退散したとスピーカーより連絡放送され、先ずは一安心した次第でした。
 一段落した後、船はシンガポールに向かって直行していると思っていたが、途中仏領印度支那領のサンチャゴに避難寄港した。フランス風の風景が目に映り、山や海辺、田園風景、建物が色彩鮮やかで、珍しさもあって、船窓から甲板から見渡しながら種々話題に花を咲かせたものでした。停泊は2〜3時間位だったと思います。再び目的地シンガポールへと航海を続けました。
 航海が漸く落ち着いて二〜三日位経った早朝,太陽が顔を出した頃、船窓からぼんやり陸地が見えてきた。間もなく、誰とでもなく「着いたぞ!着いたぞ!」の大声があふれた。大分賑やかな船内状態となりました。我々3名は早速甲板に出て着岸の状態を見守っていました。岸壁には、インド人兵士と見られる白いターバンを頭に巻いたドデカイ男が、手まねそぶりで着岸を誘導していました。上陸まで結構時間がかかることなので、3名は甲板を歩きながら始めて見るシンガポールを眺めました。海岸線には南方独特の椰子の木がきれいに、一直線に並び、椰子の実も鈴なりになって頭を下げ、我々の上陸を歓迎しているかのように見えました。何かうれしさがこみあげて来たのです。
 上陸したシンガポールは、船上から見たそれとは又違い、イギリス領らしさがあり何一つ見ても珍しく感じました。上陸に若干時間を要しましたが、我々3名は直ちに司令部担当部へ出頭し、当直の申告を上司にしたのですが応答なく控え室で大分待たされました。一時間近く待たされたあげく、我々が加わる待望の原隊は既に2〜3日前にブーゲンビル島(ソロモン群島)に転進したことが告げられました。一瞬がっかりし、しばし淋しい沈黙の時間を過ごしたものです。司令部の要人が現地と連絡を取った結果、「出来る限り早く転身するように」とのことで、また輸送船でブーゲンビル島へと航海の旅を続けることになったのです。官費旅行は命がけです。
 ソロモン、インドネシア(ジャバ島)パラオを経由してのブーゲンビル島の話はまた次の機会にゆずらせて戴きます。